「世界の名著 16 マキアヴェリ」
マキアヴェリ 著
会田 雄次 責任編集
中央公論社発行
昭和44年1月20日初版発行
538頁
画像 2頁
函入りサイズ 約19cm×14cm×3.9cm
定価 480円
函付き
ビニル函カバーなし
函帯付き
ビニル表紙カバー付き
月報付き(参考文献が載っており、大変有用)
函 幾分ヤケ、僅かにしみ
函帯 幾分ヤケ。背 強めにヤケ。
ビニル表紙カバー 良好
本体三方小口 幾分ヤケ。天小口 僅かにしみ
本体頁 幾分ヤケ。状態良好。
【収録作品】
「君主論」(池田廉訳)
「政略論」(永井三明訳)
(以下、「月報」より)
マキアヴェリの周辺 〈対談〉開高健 会田 雄次
乱世の小貴族
開高 歴史上の英雄、偉人といわれる人は、やせた小男が多いですね(笑)、ナポレオン、ヒトラー、秀吉……。見かけによらず精力的で、しぶとくて、嫉妬心があって、陰険で、大男の肥満漢にあるとぼけたところがない。
会田 マキアヴェリも、やせた男だったでしょう。上から見おろすのと、下から見あげて謀反を企てるのとの違い、騎馬民族と農耕民族との相違でしょう。ナポレオンの小心さにも共通したところがありますね。『君主論』を書いた背後にも、偉くなりたい、自分をもっと使ってみろという気持があったと思うんです。
開高 マキアヴェリの生まれや育ちは、どうだったんですか。
会田 貴族の生まれですけれど.イタリアには貴族が多くて、マキアヴェリのばあいは日本の侍程度ですよ。
開高 いわば旗本みたいなところですか。
会田 三十石、百石といった御家入というところでしょう。マキアヴェリの息子が安物だったんです、事業をしても失敗ばかりして、だから最後はちょっと悲惨だったのではないですか。マキアヴェリのお父さんは当時一流の人文主義者と交際のあったなかなかの教養人でした。お母さんのほうも家柄はよくて、詩人で、お父さんに劣らず知性豊かな人だったらしいですね。
開高 サマセット・モームの小説に、マキアヴェリを主人公にした『昔も今も』というのがありますね.、僕は昔から愛読しているんです.あの小説ですと、マキアヴェリは夫人に「おまえはいい女房だ、いい女房だ」とばかり言っていて、夫人のほうは夫人のほうで、マキアヴェリの浮気やら好色ぶりをよく知っていながら知らんふりしている。そして台所でいそいそとひばりの料理など作っている。マキアヴェリ自身には凶悪無惨なボルジアという独裁者が迫ってきて、フィレンツェをつぶしにかかろうと構えている。それを徒手空拳舌先三寸でまるめこみに、マキアヴェリは出かけ、そうしてだましたりだまされたりしながら、一方ではつまらない女を好きになって言い寄るものの、いいかげんにあしらわれて、いっこうに首尾が果たせない。ボルジアのほうは、うまい具合にまるめこんだけれども、女のほうだけはいかんともしがたくて、あげくの果てに、自分がばかにしていたお供の青年にしてやられて、子供までつくられる。しかし、フィレンツェは無事だったと家に帰ってくる。それでおれもちょっと政治生活に退屈したといって、楽しみのために小説を書いてみようかと思うのだよ、ひばりの料理を食べながらね(笑)。考えてみれば、このひばりも気の毒なもので、さんざん歌ったあとで食われてしまうんだなというようなことを言うと、夫人が横から、あなたの心に通ずる道は胃袋を通っているんですからねとかなんとか言う。友だちはそのマキアヴェリの希望を聞いて、とびあがって驚いて、自分の楽しみのために小説を書くなど、批評家にどんなことを言われるかわからない。するとマキアヴェリはひばりを食いながらせせら笑って、あの連中は、いつも楽しんだあとで文句を言うのが商売なんだ。古来自分の楽しみのため以外に書かれた傑作ってあるか。ペトロニウスの『サチュリコン』がなんのために書かれたか、よく考えてみろ。いい例ではないか。おれは小説を書くんだ―ーというので、そこで幕切れになっていますね。結局マキアヴェリ自身がマキアヴェリズムにやられてしまうという通俗的な皮肉もたいへん気がきいているし、僕はやはり非常に成熟した知性を感じますね。モーム独特の目が生ぎているわけで、政治小説の出色の作のひとつだと思うんです。日本の現代文学のなかで政治小説ということを考えると、すぐにコミュニズムとの対決、敗北、その挫折、誠実な良心の追求というようなことしかしませんけれど、僕はああいう政治小説が出てくるようになれば、そういう社会はかなり成熟したものだと思いますね。
会田 そう、それだったら日本もかなり成熟した社会になりましたね。当時のイタリアといえば、すでに成熟しきった社会だったわけで、そうした目から見たら、イギリス人にしてもフランス人にしても、わけのわからない宗教だとかイデオロギーをかついでいる猿にしか思えなかったでしょう。その点マキアヴェリはすっかり見抜いていたはずでずよ。
開高 『昔も今も』では、非常に頭のよい、口先の達者な、手練手管にたけた、中年のけちんぼの好色漢、まあ男としての要素を全部備えている……(笑)。
会田 だからマキアヴェリは思想家として、あるいはドイソ、日本、つまり後進国流にいえば、道徳家、思想家としては安物だと解釈されるわけですよ。小、中学校程度の道徳思想で武装している人がそう思うのは当然でしょうが、イタリア人にとってはばかばかしいでしょうね、それは。
開高 至誠大に通ずるなどということは、けっして言わないですね。「道」を追究するという日本人の倫理意識には、いつも政治と道徳を一体化しようとするものがあって、だからユーモアが出てこない。
会田 マキアヴェリにある偽悪家的な性格にも、ルネサンス時代の、古い道徳意識に.反抗しているマキアヴェリの姿勢があったからで、天然自然にそこまで成熟した、りっばな男とも思えませんね、
開高 僕は偽善者というのは、ある意味で尊敬するときがありますね。なぜかというと、偽善というのは、つねに気を張っていなければつとまらない感情生活ですからね。これはつらいことだと思います。おそらく偽悪も同じことでしょう。使うエネルギーは同じで、ただ方向が違うだけだと思うんです。偽善にもならず、偽悪にもならず、小心翼々とした人物たちが、偉大な偽善者、偉大な偽悪者を描いてみようとか、筆の先に引っかけてみよ……